水素エネルギー社会を支える水素吸蔵合金のこれまでとこれから
ICSD ユーザーインタビュー
2022年4月掲載
九州大学 名誉教授
秋葉 悦男 先生
水素吸蔵合金の研究をトップランナーとして40年以上牽引してこられた九州大学の秋葉悦男先生に、研究の歴史と水素エネルギー社会の動向について伺いました。
水素吸蔵合金の黎明期から研究の最前線を走り続けている
——秋葉先生のご研究について教えていただけますか。
秋葉先生:私が研究対象としてきた水素吸蔵合金は、常温・常圧で大量の水素を速やかに吸蔵し、100℃以下の温和な条件で速やかに放出する合金です。1MPa未満の圧力で吸蔵できる水素の体積は、合金自体の体積の1000倍から1500倍にもなります。一般家庭で水素を貯蔵するには建築基準法や高圧ガス保安法などの厳しい法規制をクリアする必要がありますが、水素吸蔵合金は規制の対象とならない低圧で大量の水素を貯蔵することができる、事実上唯一の方法です。例えば、ハイブリッド自動車のバッテリーとして利用されるニッケル水素電池には水素吸蔵合金が使われています。水素吸蔵合金の研究の歴史は1960年代後半にまで遡ることができますが、私は1979年の就職を機にこの世界に入りましたので、黎明期を知る第一世代として、長きに亘ってこのテーマに関わってきました。
水素吸蔵合金は水素を吸収すると膨張して細かい粉末になるため、水素と反応した後の構造解析には、単結晶構造解析ではなく、リートベルト法を用いた粉末構造解析を行う必要があります。また、水素は電子数が1つであるためX線では解析が困難で、水素を含めた構造解析には中性子線の利用が必須です。私が進めていた新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)のプロジェクト「水素貯蔵材料先端基盤研究事業」では、粉末試料の中性子全散乱を水素雰囲気下で測定できる装置「NOVA」をJ-PARCに建設しました。このタイプの測定装置としては現在でも世界に誇る性能があると思います。
これまでの研究成果をいくつか紹介します。1996年に開発されたトヨタ自動車株式会社(以降、トヨタ自動車)初の燃料電池自動車「FCHV」には、トヨタ自動車の研究者と共同開発した水素吸蔵合金が採用されています1)(図3)。燃料電池自動車開発の初期に貢献できたことを喜ばしく思います。最近では、従来の合金に見られない特異な物性を示す材料として5種類以上の元素からなるハイエントロピー合金が注目されており、それを用いた水素吸蔵も研究が進んでいますが、室温での吸蔵と放出を繰り返すことのできるものは見つかっていませんでした。私たちは、長年の研究の蓄積を礎に、30℃で水素を吸蔵できるハイエントロピー合金を世界で初めて発見することに成功しています。
さらに、今まで知られていなかった水素吸蔵合金の構造をいくつも明らかにしてきました。例えば、水素吸蔵合金の代表例であるランタン・ニッケル合金(LaNi5)が水素を吸収してLaNi5H6に変化する過程で、水素を飽和量の半分だけ吸収したLaNi5H3という構造を取っていることを発見しました2)、3)(図4)。また、ニッケル水素電池に用いられる非常に複雑な構造の「超格子合金」と呼ばれる水素吸蔵合金について、その結晶の原子座標を初めて決定しました。リートベルト法による構造解析のためには、誰かが初期構造となる結晶の原子座標を苦労して決定する必要がありますが、私たちがその大事な部分を担いました。
1) 射場 英紀、毛利 敏洋、塩野谷 美和子、秋葉 悦男、まてりあ, 36 (6), 640-642 (1997). https://doi.org/10.2320/materia.36.640
2) K. Nomura, H. Uruno, S. Ono, H. Shinozuka, S. Suda, J. Less-Common Met., 107 (2), 221-230 (1985).
https://doi.org/10.1016/0022-5088(85)90081-5
3) H. Hayakawa, K. Nomura, Y. Ishido, E. Akiba, S. Shin, H. Asano, F. Izumi, N. Watanabe, J. Less-Common Met., 143 (1-2), 315-324 (1988).
https://doi.org/10.1016/0022-5088(88)90053-7
——水素吸蔵合金のご研究に、ICSDをどのように活用されていらっしゃいますか。
秋葉先生:先ほども述べたように、リートベルト法による粉末構造解析では、結晶の候補となる原子座標をあらかじめ入力することが最大の課題の一つです。第二相が約5%以上あるような場合には、第二相の原子座標まである程度決めておかなければいけません。そのようなときに結晶構造データベースがないと、参考になる論文を探すための作業が膨大になってしまいます。ICSDを活用して原子座標を入手できるようになり効率的に研究を進めることができました。
常に誰も知らない新しいものを求めて
——水素吸蔵合金のご研究を始めた経緯について教えてください。
秋葉先生:大学院の博士課程では触媒の研究をしていましたが、水素吸蔵合金の試験の手伝いをしたり、水素吸蔵合金を用いた水素化触媒の研究発表を聞いたりと、この分野と多少の関わりがありました。本格的に水素吸蔵合金の研究に携わるようになったのは、学位取得後に、当時の通商産業省東京工業試験場(現在の産業技術総合研究所)に就職し、水素エネルギーの研究プロジェクトに参加したことからです。この研究プロジェクトは名前を変えながらずっと継続しています。
国の研究所であり資金の懸念が少なかったので、研究の中で新しい合金を見つけたら、その構造を水素原子の位置も含めて解析することに注力してきました。私が開発した合金が工業界でそのまま用いられているということは必ずしもありませんが、構造データまできちんと提示してきたことで、水素を吸蔵する材料について今でも、最初に研究したのは私だと言っていただく機会が多くあります。また、企業との共同開発や、企業同士が連携するための手助けにも努めてきました。
——先生のご研究においては、どのようなことを大切にしていらっしゃいますか。
秋葉先生:世界で誰も知らない新しいものを常に追い求める精神を大切にしてきました。そういうものを自分自身の手で明らかにするのは非常に苦しくもありまた非常に楽しくもあることです。トヨタ自動車との燃料電池車の共同開発では、従来の倍の水素を吸蔵できる合金の開発にたどりつきましたが、そこにとどまらず、水素吸蔵により異方的に膨張と収縮が起こる構造4)や、水素を含むZintl相化合物のSrAl2H2の構造(図5、 6)を明らかにする5)など、次々と新しいことに取り組んできました。
雪が降ったとき最初に歩いた人は好きなところに足跡をつけられますが、後から来た人は最初の人の足跡をどこかで踏むことになります。私は水素吸蔵合金の研究に黎明期から関わり、また、自由な環境のもとでポスドクや企業から集まった優秀な方々とともに研究できたこともあり、常に新しいものを追い求めることが叶い、幸運だったと思っています。
4) M. Yoshida, E. Akiba, Y. Shimojo, Y. Morii, F. Izumi, J. Alloys Comp., 231 (1-2), 755-759 (1995).
https://doi.org/10.1016/0925-8388(95)01713-5
5) F. Gingl, T. Vogt, E. Akiba, J. Alloys Comp., 306 (1-2), 127-132 (2000).
https://doi.org/10.1016/S0925-8388(00)00755-6
水素エネルギー社会への道筋が明確化され、水素の製造・活用が加速
——これまでの水素エネルギー利用の流れについて教えてください。
秋葉先生:合金を利用して水素を貯蔵する研究が始まったのは1960年代後半のアメリカで、マグネシウムをベースとした合金を高温で用いるものでした。常温で使用できる水素吸蔵合金としては、1970年代初頭にオランダの電機メーカーがLaNi5を報告したことが始まりといわれています。日本では、オイルショック後の1974年に開始した国家プロジェクト「サンシャイン計画」において、石油に代わる燃料として水素エネルギーが重要項目の一つとして位置づけられたことが水素吸蔵合金の本格的な研究の始まりとなっています。
1990年代初頭には、ニカド電池に代わるものとして水素吸蔵合金を利用したニッケル水素電池が開発され、その後、ハイブリッド自動車に搭載されるようになりました。現在はリチウムイオン電池の利用の勢いが増していますが、ニッケル水素電池の利用も微増ですが生産量は年々増えています。リチウムイオン電池の電圧が3.6Vであるのに対し、ニッケル水素電池の電圧は1.2Vと乾電池とほぼ同じなので、繰り返し使える乾電池としての需要が根強くあります。
最近では、再生可能エネルギーで発電した電力を水素に変換して貯めておき、必要に応じて発電するという用途で普及が始まっています。水素吸蔵合金は電池と違い自己放電を起こさず、水素の漏れさえなければエネルギーを長期間蓄えられるので、「夏に発電した電気を冬に使う」といったことも実際に行われています。大手のゼネコンでは住宅や街の設計の中でいかに水素を組み込むかについて熱心に研究がなされており、太陽光発電した電力を水素に変換して地下に貯蔵する設備をすでに保有する会社もあります。
——今後の水素エネルギー社会へ向けてどのような動きがあるのでしょうか。
秋葉先生:2017年8月に水素基本戦略が策定され、国としての水素に関する基本的な考え方が決まりました。また、2021年10月には第6次エネルギー基本計画が策定され、水素導入のシナリオと水素の用途について明確化されました。現在の日本では年間200万トンの水素が製造されていますが、これらの用途はほぼ化学製品の材料で、エネルギーとして使用されている水素は240トンしかありません。第6次エネルギー基本計画では、エネルギーとしての水素を2030年に300万トン、2050年に2000万トンにするという数値目標が示されました。また、電力、産業、民生、運輸の各部門で水素エネルギーの役割が位置付けられました。
こうした流れを受けて、水素の製造に取り組む自治体も現れています。下水処理の汚泥や酪農により生じる牛の糞尿などを原料として水素を製造するといったユニークな取り組みもあります。また、福島県ではNEDOが、太陽光を利用した世界最大級の水素製造施設である「福島水素エネルギー研究フィールド」を建設しました。
工場での製造活動においても、どれだけCO2が発生しているかが問われる時代になってきています。グローバル市場を相手にする先進的なメーカーでは、CO2を削減してグリーンな電力で工場を動かすにはどうすればよいかということを考えています。水素エネルギー社会への道筋が明確になり、今後は水素活用のための技術開発が進んでいくことを期待しています。
JAICI:先生が携わってこられた先端研究から水素エネルギー利用の展望についてまで、貴重なお話をありがとうございました。
ユーザー紹介
秋葉 悦男(あきば えつお)先生
1979年東京大学大学院 理学系研究科博士課程修了。理学博士。同年通商産業省工業技術院東京工業試験所入所。1997年宇都宮大学大学院 工学研究科エネルギー環境科学専攻 客員教授。2001年独立行政法人 産業技術総合研究所 総括研究員、2006年同主幹研究員。2010年九州大学工学研究院教授に着任、同大学カーボンニュートラルエネルギー研究所部門長、同大学水素エネルギー国際研究センター副センター長を歴任。2017年より同センター特任教授。2017年より名誉教授。
日本金属学会技術開発賞 (1997年)、新技術開発財団市村学術賞 貢献賞 (1998年)、平成11年度通商産業省研究業務優秀者表彰工業技術院長表彰 (1999年)、科学技術庁 平成12年度注目発明 (2000年)、Hydrogen Symposium 2008における Herbert C. Brown Award for Innovations in Hydrogen Research (2008年)、International Partnership for Hydrogen and Fuel Cells in the Economy (IPHE)のIPHE Technical Achievement Award (2010年)、第33回応用物理学会論文賞(応用物理学会最優秀論文賞)(2011年) などの多数の受賞歴あり。
化学情報協会では、ICSDやCSDなどX線構造解析で決定された結晶構造のデータベースや物性データベースを扱っております。ICSDには、無機化合物や金属、金属間化合物などの結晶情報、出典情報が収録されています。